それというのも、天災によって破壊された街とは、純粋な罵回(受動、受苦、パトス)の表現だからである。そして、ここから私自身のパトス(受苦)論やトポス(場所)論を援用していえば、もしわれわれが、いわゆる建築的な《建造物》、能動の所産ではなく、典型的な〈場所》を表現しようとすれば、パッシブあるいはネガティブなものによるしかないことになる。また、ユートピアとしての島のような閉じられた《場所〉にしても、それは、受動的=受苦的な文化に支えられることによって、はじめて可能になるのである。そのことは、インドネシアの濃密な文化の島の場合を考えれば、よくわかる。そこで、そのような観点から、濃密な意味場としてのバリ島の在り様を簡単にとらえておこう。
バリ島では、悪霊がきわめてリアリティに富んだ存在として見なされている。人びとはひどく暗闇をこわがり、とくに真夜中から夜明けまでは悪霊のうろつくときとしておそれられている。住居=屋敷そのものも悪霊だちからの避難所としてつくられている。屋敷のまわりにめぐらした土塀、狭い入り口の門、門のすぐ内側にある魔除けの壁のおかげで、村人たちは開けっぴろげな小屋のなかで安心して寝ることができるのである。しかしこのことは裏からいえば、屋敷の外の道端がいかに悪霊の跳梁する世界であるかを示している。
悪霊たちはバリ島という生活空間を濃密な意味場とする上に、並々ならず力を貸している。つまり、空間を強力に意味づけ、方向づけ、分節化し、活気に充ちたものにするためには、どうしても、方位のコスモロジカルな設定と悪霊たちの活躍が必要なのである。というより、方位のコスモロジカルな設定と悪霊たちの跳梁が、バリ島においては、その生活空間を動的かつ濃密な意味を持ったものにする上で、実にうまい具合に協動している。
悪霊たちはバリ島の人びとを脅かし、おそれさせ、それによって人びとの情念の根源、つまり身体に働きかける。そしてここで、情念とはパトスのことであり受苦のことであるから、人びとはこのように悪霊と付き合うことで、情念=受苦について否応なしに訓練される。こうして、欝積された情念=受苦からの解放が、さまざまな演劇的、音楽的パフォーマンスによってなされることになるのである。
さて、特別展示の「海市-もうひとつのユートピア」では、四つの種類の〈海市》の模型が展示されていた。すなわち、プロトタイプこすでに珠海市側に提案されている案で、中国の文化遺産になっている建築型を変形して採用している。シグネチャーズこ世界中から五十人程度の著名な建築家を要請するもので、その下敷きとしては十八世紀の建築家ピラネツがデザインした建築群が置かれている。ヴィジターズご十二人の指名されたデジタルアート作家たちが持ち回りで観客と一緒に連鎖的に制作を進行させるもの。《インターネット》インターネットに開かれた提案受容の場である。
2013年12月25日水曜日
2013年11月5日火曜日
ブータンの伝統的な独自色
いずれにせよ、一〇年に及んだ滞在中に、そしてその後現在に至るまでに、国王の側近や、政府の高官で第四代国王とじかに接する人だちから聞き及んだところ、そしてわたし自身の直接の経験から、次のような国王の人物像が浮かび上がってくる。何よりもまず、ストイックなまでに質素な人である。国王の住まいは、サムテンリンーパレスと呼ばれているが、パレス言殿とは名ばかりで、木立の中に建てられた本当にこぢんまりとしたいわゆるログキャビン(丸太小屋)である。このところ目覚ましい経済発展を遂げているブータンの首都ティンプは建設ラッシュで、個人の大きな住宅も多く新築されており、誰もが異口同音に「新富裕層のほうが国王よりも快適で豪華な家に住んでいる」と言っている。
車に関しても、国王が乗っているのは、最近ではちょっとした富裕層には一般的になってきたトヨタのランドクルーザーである。かつては国賓用に一台あったロールスロイスもいつのまにか姿を消し、普通の乗用車になっている。もちろん国王専用飛行機などというものはない。インドに公式訪問をする場合でも、ドゥクーエアのジェット機四機のうち一機を専用機として調達はしても、民間路線のスケジュールを乱すことはない。そして非常に飾り気がなく、形式張らない人である。たとえば、面謁の作法にしても、ブータンを含めたチベット文化圏では、貴人に会う時には「カタ」と呼ばれる真っ白な絹のスカーフを差し出すのが慣わしである。ブータンではこのカタにいくつもの種類があり、差し出す作法もかなり複雑である。これが、国王はじめ、王家の面々に拝謁する外国人泣かせであった。
わたしが滞在していた一九八〇年代までは、この作法が守られていたので、ブータンを離れてから数年して、一九九〇年代の中頃に国王に面謁を申し込んだ時、わたしは当然のこととして国王用め立派なカタを用意した。ところが国王執務室の入り口で、側近から「力夕は不要。普通におじぎなり、握手でよろしい」と告げられ、驚いた。後から聞くと、これはある日国王自身から「今後外国人はカタなしでよし」とのお達しがあったとのことである。このほかにも第四代国王の代に、ブータンの伝統的な独自色は保ちつつも簡略化された儀式が少なくない。
また、思いやりがあり、周囲に対する気配りを欠かさない人である。わたしが初めて国王の面前に出たのは、日本からの年配の訪問者があり、その人がゾンカ語も英語も解さないということで、急濾通訳として呼ばれた時である。この時驚いたのは、訪問者が国王の横に着席し、側近がお茶をお盆に載せて運んできた時、国王は側近にお盆を低いテーブルに置いて引き下がるように命じられたことである。その後、自らお茶を注ぎ、ミルク、砂糖を入れるかどうか、どの菓子がいいかを尋ねて、すべて自ら給仕された。そして拝謁は一時間ほど続いたが、この間誰一人として執務室に入ってこなかった。拝謁が終わってから、国王は自ら訪問者の手を取って、扉まで案内された。
わたしが、国王の周囲に対する気配りのすばらしさを痛感したのは、ある屋外での法要の時であった。詳しくはあとで述べる二〇〇三年末の軍事作戦の勝利を記念して、ティンプからプナカヘの途中にあるドチューラ峠に一〇九基からなる壮大なドウクーワンギェルーチョルテン(第四代ブータン国王勝利記念仏塔)が建立され、二〇〇四年夏に落慶法要が営まれた。わたしは偶然にもその時にティンプに居合わせたので、その法要に招待された。全王家、全政府が参列していたが、外国人は皇太后の招待客数人しかいなかった。儀式は午前中で終わり、昼食がふるまわれたが、建造物が一切ない所なので、すべてはブータン人が得意とするテント張りの、折り畳み椅子の仮設施設であった。
車に関しても、国王が乗っているのは、最近ではちょっとした富裕層には一般的になってきたトヨタのランドクルーザーである。かつては国賓用に一台あったロールスロイスもいつのまにか姿を消し、普通の乗用車になっている。もちろん国王専用飛行機などというものはない。インドに公式訪問をする場合でも、ドゥクーエアのジェット機四機のうち一機を専用機として調達はしても、民間路線のスケジュールを乱すことはない。そして非常に飾り気がなく、形式張らない人である。たとえば、面謁の作法にしても、ブータンを含めたチベット文化圏では、貴人に会う時には「カタ」と呼ばれる真っ白な絹のスカーフを差し出すのが慣わしである。ブータンではこのカタにいくつもの種類があり、差し出す作法もかなり複雑である。これが、国王はじめ、王家の面々に拝謁する外国人泣かせであった。
わたしが滞在していた一九八〇年代までは、この作法が守られていたので、ブータンを離れてから数年して、一九九〇年代の中頃に国王に面謁を申し込んだ時、わたしは当然のこととして国王用め立派なカタを用意した。ところが国王執務室の入り口で、側近から「力夕は不要。普通におじぎなり、握手でよろしい」と告げられ、驚いた。後から聞くと、これはある日国王自身から「今後外国人はカタなしでよし」とのお達しがあったとのことである。このほかにも第四代国王の代に、ブータンの伝統的な独自色は保ちつつも簡略化された儀式が少なくない。
また、思いやりがあり、周囲に対する気配りを欠かさない人である。わたしが初めて国王の面前に出たのは、日本からの年配の訪問者があり、その人がゾンカ語も英語も解さないということで、急濾通訳として呼ばれた時である。この時驚いたのは、訪問者が国王の横に着席し、側近がお茶をお盆に載せて運んできた時、国王は側近にお盆を低いテーブルに置いて引き下がるように命じられたことである。その後、自らお茶を注ぎ、ミルク、砂糖を入れるかどうか、どの菓子がいいかを尋ねて、すべて自ら給仕された。そして拝謁は一時間ほど続いたが、この間誰一人として執務室に入ってこなかった。拝謁が終わってから、国王は自ら訪問者の手を取って、扉まで案内された。
わたしが、国王の周囲に対する気配りのすばらしさを痛感したのは、ある屋外での法要の時であった。詳しくはあとで述べる二〇〇三年末の軍事作戦の勝利を記念して、ティンプからプナカヘの途中にあるドチューラ峠に一〇九基からなる壮大なドウクーワンギェルーチョルテン(第四代ブータン国王勝利記念仏塔)が建立され、二〇〇四年夏に落慶法要が営まれた。わたしは偶然にもその時にティンプに居合わせたので、その法要に招待された。全王家、全政府が参列していたが、外国人は皇太后の招待客数人しかいなかった。儀式は午前中で終わり、昼食がふるまわれたが、建造物が一切ない所なので、すべてはブータン人が得意とするテント張りの、折り畳み椅子の仮設施設であった。
2013年8月28日水曜日
石垣島に憧れてやってくる若者たちの実態
たしかに規制はされているのだが、よく見れば規制区域がパズルのように入り組んでいて、全体を俯瞰すればゾーニング規制されていないのと同じ結果になっている。建築家の芦原義信氏が、日本人は〈「内から眺める景観」に重点をおき、「外から眺める景観」にはそれほど重点をおかなかった〉(『続・街並みの美学』)と書いたように、日本人は建物の内に坪庭を設えるような繊細な感覚を持ちながら、〈建物の壁面という壁面には、処狭しとばかりに看板や垂れ幕がとりつけられ、屋上には巨大な広告塔が設置され〉(前出同)ても平気な人種なのである。あるいは京都を訪れた日本人観光客が、刑務所のような京都新駅舎や、古刹に並ぶ自動販売機や、四条通の電柱が気にならないのと同じで、恩納村にやってくる観光客はダンプカーも派手な看板も目に入らないのかもしれない。
ある観光客は「恋人と二人でホテルの部屋から美しい海を眺めるだけで最高」と言ったが、「内から眺める景観」さえ申し分なければ満足できるのだろう。ただ、いつまでも日本人観光客が「内から眺める景観」だけで満足するとは思えない。現在、海外のリゾート地はテロや鳥インフルエンザといった不安定要因を抱えているが、もしもそれらが解消されたとき、果たして、それでも沖縄に行きたいという観光客はどれほどいるだろうか。「若夏」と書いて「うりずん」と読む。沖縄ではまだ暑さが厳しくない初夏のことをいうが、私はこの言葉が大好きだ。何かがはち切れそうに脹っている気配を感じる。〇八年の若夏に、私は久しぶりに石垣島を訪れた。観光、開発、移住。沖縄が抱えるさまざまな問題の縮図が石垣島にあると言われている。
たしかに、石垣空港を降りた途端、なるほどと思わせたのが、市街に向かう途中の様変わりだった。道路脇はどこもかしこもマンションだらけなのである。それも大半が1Kで、部屋代は月四万円~五万円という。「あと四、五年もすれば競売に出される物件も出てくるのでは」と囁かれるほどの過熱ぶりだそうだ。ところがその数力月後にサブプライムローン問題が起こり、あちこちで入居者がいない幽霊マンションがあらわれはじめた。いったい誰が住んでいたのだろうか。石垣島に住む知人の森隆さんはこう言った。「石垣には住民登録をしていない幽霊人口が一万人いると噂されているんです。ほとんどが飲み屋やホテルで働いている本土の若者で、この人たちを目当てに建てたんです。
ところが、観光客が減って彼らの仕事がなくなり、引き上げる人も出ています。ただ、全般的に土地価格は高止まりですね。白保に新空港ができるということで、それを期待しているんでしょう」白保に空港をつくる案は二転三転し、とりわけ九〇年代には賛成派と反対派で島内を二分した。私はその直後に石垣島を訪れたが、結納も終えて結婚式まで決まっていたカップルが、親が賛成派と反対派に分かれたために破談になったという話を何度も聞いたことがある。政治がからむと、前後の見境がつかなくなるのは、どうも石垣島民の体質らしい。沖縄への移住者というと、団塊の世代のようなリタイアしたシニア世代を想像するが、じつは二〇〇〇年の統計で、最も多いのが二〇歳から三九歳の若い人たちで、全体の七割を占める。もっとも移住ブームが起こったのが〇五年だから、現在はシニア世代がもっと増えているはずだが、若い世代が中心であることには変わりがない。
沖縄本島の都会化に比べたら、石垣島はまだまだ亜熱帯の自然がたくさん残され、ちょっと足を伸ばせばいたるところに小さな島があることが魅力なのだろう。こうした雰囲気に憧れてやってきた若い世代は、地元のホテルやダイビングショップで働いているという。実際、石垣市内にはダイビング関連の店舗が一〇〇以上あって、半分以上は本土出身者が経営しているそうで、1Kのマンションに住んでいるのはこういう店で働いている人たちだ。本土でダメだったヤツは沖縄に来れば何とかなるのか。石垣港の横手に広がる美咲町は、石垣島随一の繁華街だが、居酒屋で三線を引いているのはたいてい本土からやってきた若者だという。一五年ぶりに美咲町の居酒屋に入ったが、素人がつくったとしか思えないひどい味に閉口してしまった。
ある観光客は「恋人と二人でホテルの部屋から美しい海を眺めるだけで最高」と言ったが、「内から眺める景観」さえ申し分なければ満足できるのだろう。ただ、いつまでも日本人観光客が「内から眺める景観」だけで満足するとは思えない。現在、海外のリゾート地はテロや鳥インフルエンザといった不安定要因を抱えているが、もしもそれらが解消されたとき、果たして、それでも沖縄に行きたいという観光客はどれほどいるだろうか。「若夏」と書いて「うりずん」と読む。沖縄ではまだ暑さが厳しくない初夏のことをいうが、私はこの言葉が大好きだ。何かがはち切れそうに脹っている気配を感じる。〇八年の若夏に、私は久しぶりに石垣島を訪れた。観光、開発、移住。沖縄が抱えるさまざまな問題の縮図が石垣島にあると言われている。
たしかに、石垣空港を降りた途端、なるほどと思わせたのが、市街に向かう途中の様変わりだった。道路脇はどこもかしこもマンションだらけなのである。それも大半が1Kで、部屋代は月四万円~五万円という。「あと四、五年もすれば競売に出される物件も出てくるのでは」と囁かれるほどの過熱ぶりだそうだ。ところがその数力月後にサブプライムローン問題が起こり、あちこちで入居者がいない幽霊マンションがあらわれはじめた。いったい誰が住んでいたのだろうか。石垣島に住む知人の森隆さんはこう言った。「石垣には住民登録をしていない幽霊人口が一万人いると噂されているんです。ほとんどが飲み屋やホテルで働いている本土の若者で、この人たちを目当てに建てたんです。
ところが、観光客が減って彼らの仕事がなくなり、引き上げる人も出ています。ただ、全般的に土地価格は高止まりですね。白保に新空港ができるということで、それを期待しているんでしょう」白保に空港をつくる案は二転三転し、とりわけ九〇年代には賛成派と反対派で島内を二分した。私はその直後に石垣島を訪れたが、結納も終えて結婚式まで決まっていたカップルが、親が賛成派と反対派に分かれたために破談になったという話を何度も聞いたことがある。政治がからむと、前後の見境がつかなくなるのは、どうも石垣島民の体質らしい。沖縄への移住者というと、団塊の世代のようなリタイアしたシニア世代を想像するが、じつは二〇〇〇年の統計で、最も多いのが二〇歳から三九歳の若い人たちで、全体の七割を占める。もっとも移住ブームが起こったのが〇五年だから、現在はシニア世代がもっと増えているはずだが、若い世代が中心であることには変わりがない。
沖縄本島の都会化に比べたら、石垣島はまだまだ亜熱帯の自然がたくさん残され、ちょっと足を伸ばせばいたるところに小さな島があることが魅力なのだろう。こうした雰囲気に憧れてやってきた若い世代は、地元のホテルやダイビングショップで働いているという。実際、石垣市内にはダイビング関連の店舗が一〇〇以上あって、半分以上は本土出身者が経営しているそうで、1Kのマンションに住んでいるのはこういう店で働いている人たちだ。本土でダメだったヤツは沖縄に来れば何とかなるのか。石垣港の横手に広がる美咲町は、石垣島随一の繁華街だが、居酒屋で三線を引いているのはたいてい本土からやってきた若者だという。一五年ぶりに美咲町の居酒屋に入ったが、素人がつくったとしか思えないひどい味に閉口してしまった。
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