2012年8月23日木曜日

「無条件の日朝正常化交渉再開」に了解を与えていた

自民党は、金容淳書記の再三の要請を受け、一九九七年一一月一一日から森喜朗総務会長を団長にした与党訪朝団(自民党、社民党、さきがけ)を派遣した。この与党訪朝団に対し、金容淳書記は「拉致」との言葉を使わないように要請し「行方不明者」とするよう求め、調査することを約束した。しかし、後になって該当者はいないとの調査報告が届けられた。

この森訪朝団に参加した自民党の「実力者」に、金容淳書記は「コメ一○○万トンの支援」を要請したといわれるのである。

森訪朝団は、国内での批判もあり合意文書は作成しなかった。その代わり「報道文」を発表した。この報道文には、①第九回政府間交渉の再開②交流拡大―が盛り込まれた。北朝鮮が第九回交渉の再開にこだわった理由は「新たな交渉」にしたくなかったからである。新たな交渉にすると、拉致問題を正式議題として日本側が提出するのは間違いなく、また「戦後の償い」が白紙化される恐れがあった。日本の外務省は、新たな交渉を望んだが、日本の政治家は「新たな交渉」と「第九回交渉」の違いが持つ大きな意味を理解できなかった。この報道文からは「無条件の日朝正常化交渉再開」の文字は消えた。

北朝鮮側がこだわった「無条件の日朝正常化交渉再開」の条件を、事実上棚上げにした気概ある日本の外交官がいた。

日本の外交官にとって、外務省北東アジア課長のポストは、最重要ポストの一つである。北東アジア課長は、南北両朝鮮との外交を担当する。歴代の課長には「優秀」といわれた外交官が任命された。

しかし、このポストほど危険な役職もない。南北朝鮮の対立の中で、下手をすると双方の攻撃をうけかねないからである。特に、どちらか一方と強く結びつく日本の政治家が、自分の思惑や意向に沿わない政策には強く反発するからである。外務省内にも、多くの異なった見解がある。それだけに、政治家の動向や省内の思惑を十分に計算していないと、集中砲火を浴びることもある。北東アジア課長になったら、問題になることをせずに無難に二年の任期を終え、次のポストに急いで移るのが頭のいい対応といわれた。

当時北東アジア課長に就任したA氏は、それまでの方針をこっそり変えた。「拉致問題が何らかの形で前進しない限りは、日朝正常化交渉の再開は、国民の納得を得られない」と、北朝鮮側に非公式に通告したのである。それまでの北東アジア課長は、政治家が合意した「無条件の日朝正常化交渉再開」に了解を与えていたのである。