2013年12月25日水曜日

音楽的パフォーマンス

それというのも、天災によって破壊された街とは、純粋な罵回(受動、受苦、パトス)の表現だからである。そして、ここから私自身のパトス(受苦)論やトポス(場所)論を援用していえば、もしわれわれが、いわゆる建築的な《建造物》、能動の所産ではなく、典型的な〈場所》を表現しようとすれば、パッシブあるいはネガティブなものによるしかないことになる。また、ユートピアとしての島のような閉じられた《場所〉にしても、それは、受動的=受苦的な文化に支えられることによって、はじめて可能になるのである。そのことは、インドネシアの濃密な文化の島の場合を考えれば、よくわかる。そこで、そのような観点から、濃密な意味場としてのバリ島の在り様を簡単にとらえておこう。

バリ島では、悪霊がきわめてリアリティに富んだ存在として見なされている。人びとはひどく暗闇をこわがり、とくに真夜中から夜明けまでは悪霊のうろつくときとしておそれられている。住居=屋敷そのものも悪霊だちからの避難所としてつくられている。屋敷のまわりにめぐらした土塀、狭い入り口の門、門のすぐ内側にある魔除けの壁のおかげで、村人たちは開けっぴろげな小屋のなかで安心して寝ることができるのである。しかしこのことは裏からいえば、屋敷の外の道端がいかに悪霊の跳梁する世界であるかを示している。

悪霊たちはバリ島という生活空間を濃密な意味場とする上に、並々ならず力を貸している。つまり、空間を強力に意味づけ、方向づけ、分節化し、活気に充ちたものにするためには、どうしても、方位のコスモロジカルな設定と悪霊たちの活躍が必要なのである。というより、方位のコスモロジカルな設定と悪霊たちの跳梁が、バリ島においては、その生活空間を動的かつ濃密な意味を持ったものにする上で、実にうまい具合に協動している。

悪霊たちはバリ島の人びとを脅かし、おそれさせ、それによって人びとの情念の根源、つまり身体に働きかける。そしてここで、情念とはパトスのことであり受苦のことであるから、人びとはこのように悪霊と付き合うことで、情念=受苦について否応なしに訓練される。こうして、欝積された情念=受苦からの解放が、さまざまな演劇的、音楽的パフォーマンスによってなされることになるのである。

さて、特別展示の「海市-もうひとつのユートピア」では、四つの種類の〈海市》の模型が展示されていた。すなわち、プロトタイプこすでに珠海市側に提案されている案で、中国の文化遺産になっている建築型を変形して採用している。シグネチャーズこ世界中から五十人程度の著名な建築家を要請するもので、その下敷きとしては十八世紀の建築家ピラネツがデザインした建築群が置かれている。ヴィジターズご十二人の指名されたデジタルアート作家たちが持ち回りで観客と一緒に連鎖的に制作を進行させるもの。《インターネット》インターネットに開かれた提案受容の場である。

2013年11月5日火曜日

ブータンの伝統的な独自色

いずれにせよ、一〇年に及んだ滞在中に、そしてその後現在に至るまでに、国王の側近や、政府の高官で第四代国王とじかに接する人だちから聞き及んだところ、そしてわたし自身の直接の経験から、次のような国王の人物像が浮かび上がってくる。何よりもまず、ストイックなまでに質素な人である。国王の住まいは、サムテンリンーパレスと呼ばれているが、パレス言殿とは名ばかりで、木立の中に建てられた本当にこぢんまりとしたいわゆるログキャビン(丸太小屋)である。このところ目覚ましい経済発展を遂げているブータンの首都ティンプは建設ラッシュで、個人の大きな住宅も多く新築されており、誰もが異口同音に「新富裕層のほうが国王よりも快適で豪華な家に住んでいる」と言っている。

車に関しても、国王が乗っているのは、最近ではちょっとした富裕層には一般的になってきたトヨタのランドクルーザーである。かつては国賓用に一台あったロールスロイスもいつのまにか姿を消し、普通の乗用車になっている。もちろん国王専用飛行機などというものはない。インドに公式訪問をする場合でも、ドゥクーエアのジェット機四機のうち一機を専用機として調達はしても、民間路線のスケジュールを乱すことはない。そして非常に飾り気がなく、形式張らない人である。たとえば、面謁の作法にしても、ブータンを含めたチベット文化圏では、貴人に会う時には「カタ」と呼ばれる真っ白な絹のスカーフを差し出すのが慣わしである。ブータンではこのカタにいくつもの種類があり、差し出す作法もかなり複雑である。これが、国王はじめ、王家の面々に拝謁する外国人泣かせであった。

わたしが滞在していた一九八〇年代までは、この作法が守られていたので、ブータンを離れてから数年して、一九九〇年代の中頃に国王に面謁を申し込んだ時、わたしは当然のこととして国王用め立派なカタを用意した。ところが国王執務室の入り口で、側近から「力夕は不要。普通におじぎなり、握手でよろしい」と告げられ、驚いた。後から聞くと、これはある日国王自身から「今後外国人はカタなしでよし」とのお達しがあったとのことである。このほかにも第四代国王の代に、ブータンの伝統的な独自色は保ちつつも簡略化された儀式が少なくない。

また、思いやりがあり、周囲に対する気配りを欠かさない人である。わたしが初めて国王の面前に出たのは、日本からの年配の訪問者があり、その人がゾンカ語も英語も解さないということで、急濾通訳として呼ばれた時である。この時驚いたのは、訪問者が国王の横に着席し、側近がお茶をお盆に載せて運んできた時、国王は側近にお盆を低いテーブルに置いて引き下がるように命じられたことである。その後、自らお茶を注ぎ、ミルク、砂糖を入れるかどうか、どの菓子がいいかを尋ねて、すべて自ら給仕された。そして拝謁は一時間ほど続いたが、この間誰一人として執務室に入ってこなかった。拝謁が終わってから、国王は自ら訪問者の手を取って、扉まで案内された。

わたしが、国王の周囲に対する気配りのすばらしさを痛感したのは、ある屋外での法要の時であった。詳しくはあとで述べる二〇〇三年末の軍事作戦の勝利を記念して、ティンプからプナカヘの途中にあるドチューラ峠に一〇九基からなる壮大なドウクーワンギェルーチョルテン(第四代ブータン国王勝利記念仏塔)が建立され、二〇〇四年夏に落慶法要が営まれた。わたしは偶然にもその時にティンプに居合わせたので、その法要に招待された。全王家、全政府が参列していたが、外国人は皇太后の招待客数人しかいなかった。儀式は午前中で終わり、昼食がふるまわれたが、建造物が一切ない所なので、すべてはブータン人が得意とするテント張りの、折り畳み椅子の仮設施設であった。


2013年8月28日水曜日

石垣島に憧れてやってくる若者たちの実態

たしかに規制はされているのだが、よく見れば規制区域がパズルのように入り組んでいて、全体を俯瞰すればゾーニング規制されていないのと同じ結果になっている。建築家の芦原義信氏が、日本人は〈「内から眺める景観」に重点をおき、「外から眺める景観」にはそれほど重点をおかなかった〉(『続・街並みの美学』)と書いたように、日本人は建物の内に坪庭を設えるような繊細な感覚を持ちながら、〈建物の壁面という壁面には、処狭しとばかりに看板や垂れ幕がとりつけられ、屋上には巨大な広告塔が設置され〉(前出同)ても平気な人種なのである。あるいは京都を訪れた日本人観光客が、刑務所のような京都新駅舎や、古刹に並ぶ自動販売機や、四条通の電柱が気にならないのと同じで、恩納村にやってくる観光客はダンプカーも派手な看板も目に入らないのかもしれない。

ある観光客は「恋人と二人でホテルの部屋から美しい海を眺めるだけで最高」と言ったが、「内から眺める景観」さえ申し分なければ満足できるのだろう。ただ、いつまでも日本人観光客が「内から眺める景観」だけで満足するとは思えない。現在、海外のリゾート地はテロや鳥インフルエンザといった不安定要因を抱えているが、もしもそれらが解消されたとき、果たして、それでも沖縄に行きたいという観光客はどれほどいるだろうか。「若夏」と書いて「うりずん」と読む。沖縄ではまだ暑さが厳しくない初夏のことをいうが、私はこの言葉が大好きだ。何かがはち切れそうに脹っている気配を感じる。〇八年の若夏に、私は久しぶりに石垣島を訪れた。観光、開発、移住。沖縄が抱えるさまざまな問題の縮図が石垣島にあると言われている。

たしかに、石垣空港を降りた途端、なるほどと思わせたのが、市街に向かう途中の様変わりだった。道路脇はどこもかしこもマンションだらけなのである。それも大半が1Kで、部屋代は月四万円~五万円という。「あと四、五年もすれば競売に出される物件も出てくるのでは」と囁かれるほどの過熱ぶりだそうだ。ところがその数力月後にサブプライムローン問題が起こり、あちこちで入居者がいない幽霊マンションがあらわれはじめた。いったい誰が住んでいたのだろうか。石垣島に住む知人の森隆さんはこう言った。「石垣には住民登録をしていない幽霊人口が一万人いると噂されているんです。ほとんどが飲み屋やホテルで働いている本土の若者で、この人たちを目当てに建てたんです。

ところが、観光客が減って彼らの仕事がなくなり、引き上げる人も出ています。ただ、全般的に土地価格は高止まりですね。白保に新空港ができるということで、それを期待しているんでしょう」白保に空港をつくる案は二転三転し、とりわけ九〇年代には賛成派と反対派で島内を二分した。私はその直後に石垣島を訪れたが、結納も終えて結婚式まで決まっていたカップルが、親が賛成派と反対派に分かれたために破談になったという話を何度も聞いたことがある。政治がからむと、前後の見境がつかなくなるのは、どうも石垣島民の体質らしい。沖縄への移住者というと、団塊の世代のようなリタイアしたシニア世代を想像するが、じつは二〇〇〇年の統計で、最も多いのが二〇歳から三九歳の若い人たちで、全体の七割を占める。もっとも移住ブームが起こったのが〇五年だから、現在はシニア世代がもっと増えているはずだが、若い世代が中心であることには変わりがない。

沖縄本島の都会化に比べたら、石垣島はまだまだ亜熱帯の自然がたくさん残され、ちょっと足を伸ばせばいたるところに小さな島があることが魅力なのだろう。こうした雰囲気に憧れてやってきた若い世代は、地元のホテルやダイビングショップで働いているという。実際、石垣市内にはダイビング関連の店舗が一〇〇以上あって、半分以上は本土出身者が経営しているそうで、1Kのマンションに住んでいるのはこういう店で働いている人たちだ。本土でダメだったヤツは沖縄に来れば何とかなるのか。石垣港の横手に広がる美咲町は、石垣島随一の繁華街だが、居酒屋で三線を引いているのはたいてい本土からやってきた若者だという。一五年ぶりに美咲町の居酒屋に入ったが、素人がつくったとしか思えないひどい味に閉口してしまった。




2013年7月4日木曜日

公共工事は何でもかんでも無駄遣いだ

「経済成長率を下げてはならないので当面公共工事の水準は守るべきだ」という議論は必ず出てきますが、そもそも年間四〇兆円程度の税収に対して八〇兆円以上を使っている日本政府が、さらに公共工事を増やすというのであれば、歳出のうちの何を削って回すのか、あるいは増税を認めるのか、どちらかをセットにせざるを得ません。そして歳出削減、増税、いずれを取るにせよ、その分日本の内需はマクロ的な下降圧力を受けます。つまり、公共工事増額の分だけ経済成長率が純増することにはならないのです。

私は「公共工事は何でもかんでも無駄遣いだ」という決め付けにはまったく賛成できません。特に既存インフラの維持更新投資はこれからが本番です。ですが、生産年齢人口の長期的な大減少の下でも本当に必要なL事と、人目増加が前提になっている工事の区別をきちんとして、後者を取りやめにしていかないと、公共11事=税金のムダと全部にレッテルが貼られて、本当に必要な工事まで切り落とされかねません。すでにそういう危険は現実になりつつあります。関係者の皆さんは、どこに背水の陣をしくのかを考える必要があります。「内需拡大」を「経済成長」と言い間違えて要求するアメリカのピンボケ新聞、雑誌、ネットなどに載るコメントを見ていると、アメリカの政・財・学界関係者も「日本は生産性を上げて健全な経済成長を目指せ」と言い続ける人ばかりですね。彼らも経済成長と前にお話しした①②③の関係がよくわかっていないのではないでしょうか。

彼らが本当に言いたいのは、③の個人消費総額の維持増加(↓日本の内需拡大)であって、それに合わせてアメリカ製品も売りたい(あるいは日本からアメリカへの輸出を結果として抑制したい?)わけです。輸出だけが伸びて(アメリカにさんざん日本製品を売りつけて)内需はまったく伸びなかった(アメリカ製品はまるで[本で売れなかった]今世紀初頭の「戦後最長の好景気」を、再現して欲しいと思っているわけでは微塵もないでしょう。ですが彼らも、経済成長すれば内需も当然に拡大するという教科書の記述を、最近の日本ではそうはことが進んでいないにもかかわらず、無邪気に信じているわけです。

挙げ句の果てには、「個人所得が増えたのに個人消費が増えないのは、日本政府が何かヘンな規制をして市場を歪めているからに違いない」という、「イラク政府は大量破壊兵器を持っているに違いない」というのと似たような(善意なのかもしれないけれども短絡的な)即断をしてしまう。そして日本にいろいろ「構造改革」を要求してくるわけです。しかし一番大事な構造問題である「生産年齢人口の減少」を見過ごしたままですので、要求通りにしてもさして目覚ましい効果は生じません。「小泉改革」を進めるのか戻すのか、人によってあるいはモノによって極端に意見が違うようですが、一つ言えるのは進めようがやめようがどっちにしても、日本の内需はそれだけでは成長しないということです。「経済成長率」という見かけの数字だけは、どちらかによって上がるのかもしれないのですがね。

それどころか「規制を緩和して経済が自由に回るようになれば万事はいい方向に解決する」というアメリカ由来の理念を、自分も共有するフリをした一部の日本企業が、「雇用に関する規制緩和を活かし、給料や福利厚生関連費用の安い非正規社員を増やすことでコストダウンする」というビジネスモデルに傾斜しました。そのためますます「若い世代の給与の抑制」が深刻化し、かえってアメリカの望んでいる日本の内需拡大が遠ざかっています。ただ私はこれをもって「アメリカ由来の規制緩和路線はけしからん」と叫ぶ意見には与しません。先ほど規制緩和の理念を「共有するフリをした一部の日本企業」と申し上げましたが、そう、彼らがやっているのは「フリ」であって本気ではない。実際彼らは、新たに雇う若者の雇用を規制緩和に乗って流動化・低廉化させることは喜んで行いましたけれども、ある程度の年齢以上の正社員や退職者の、既得権化した処遇や福利厚生には総じて手をつけていないからです。

2013年3月30日土曜日

レンズで嗅ぎ回る

次にマイクロレンズ(マクロレンズともいう)ですが、このレンズは普通の撮影からクローズアップまで使えるので、必携の一本です。焦点距離も50、100、200ミリ前後のものからズームまであります。前に紹介した葉痕や、台所のキャベツ君やピーマン君との対話には絶対に欠かせないレンズです。子供のキラキラ光る瞳も、このレンズがあればクローズアップでしっかりと捉えられます。

普通の105ミリレンズは九十センチが最短の撮影距離ですが、同じ105ミリでもマイクロレンズだと約三十センチまで近寄れるので、被写体とほぼ同じ大きさの近接撮影ができます。この六十センチの差が計りしれない世界に導いてくれるのです。わたしは一眼レフにこのレンズを付けて、庭先や近くの森の中を、犬の鼻先よろしく、レンズで嗅ぎ回るのが好きです。忙しげに動き回る蟻や葉の上のテントウ虫の仲間にも入れてもらえるし、紫陽花の茎に蝉か置いていった透き通った茶色の甲冑にみとれていると、SF映画のワンシーンに引きずり込まれたような錯覚を覚えます。鮮やかに紅葉を始めたカエデの葉に思いきりレンズを近づけると、太陽光を通して赤や黄色、薄い緑に葉脈がブロックをつくり、まるでステンドグラスのように見えます。

超望遠レンズというのは、普通は400ミリ以上の焦点距離のレンズのことをいいます。オートフォーカスレンズですと五、六十万から百二、三十万円。1000ミリを超す受注生産のレンズともなると一千万円近くします。一般の写真愛好家にはとても手の出ない値段です。このレンズは新聞、雑誌、テレビなどのマスコミで大活躍しているレンズで、プロ野球やサッカー、ラグビーなどのスポーツ取材には欠かせません。バックスクリーン横からのカメラがキャッチャーを画面いっぱいに捉えるとか、ピッチャーの額から汗が流れ落ちているアップの写真など、みなこのレンズのお世話になったものです。

スポーツのほかに野生動物や鳥の生態撮影にも使われていますが、有名人の記者会見や外国の要人が日本を訪れたときの共同取材、国会の本会議場のカメラマン席などにも、東京ドームのカメラマン席並の超望遠レンズの放列が敷かれることがあります。しかし、遠くのものを近くに引っぱるだけでは、レンズの当たり前の機能を利用しているだけにすぎません。なんとかこのレンズの特長を最大に生かした写真が出てこないものでしょうか。実は、これにはお手本があります。

もう五十年近くも前になりますが、アメリカの望遠写真術の家元アンドレアスーファイニンガーが、600ミリの望遠レンズを駆使して撮った写真集『チェンジングーアメリカ(移りゅくアメリカ)』です。誰か、この日本版をやってくれないものでしょうか。この写真集には、ニューヨークの五番街を歩く人たちが、望遠レンズで引っぱられて遠近感をなくし、立錐の余地もない雑踏のように見える、有名な写真があります。

日本なら、たとえば銀座一丁目から八丁目までを一枚の画面に写すとか、隅田川の遊覧船とレインボーブリッジ、屋形船もチョコッと見えて、そのすぐうしろに羽田空港を離陸したばかりのジャンボ機の巨体が浮いている写真とか、首都高速7号線の箱崎インターに皇居の森、その上方に張りついたような富士山がある、というような写真を夢見ているのですが。こうした写真を撮るには、撮影前に地図上の綿密な調査と十分な計算が不可欠ですし、正月や台風が吹き過ぎたあとのような、空気の澄んだ日を選ばなくてはなりません。しかし、結局はヤル気の問題でしょうね。