2012年6月20日水曜日

父性原理での対応

ただ、日本のカウンセラーには、ほんとうの意味での受容をせず、受容の真似ばかりして失敗している人がかなりいます。来談者が、「ぼくは学校へ行っていません」と言ったとします。

そのときに、カウンセラーが表面では「ああ、そうか、そうか」とうなずきながら、心の中では、「困ったもんだな」と思っているとしたら、これはほんとうの意味での受容ではなく、受容の真似にすぎません。

たとえば、高校生くらいのクライエントが、「ぼくは好きなことをして暮らすんや。お父さんからはお金さえもらえればいい」などと言った場合、そういう相手の人生観を本気で受けいれることができるでしょうか。

表面的にはわかったように振る舞いながら、心の中では、「なにをアホなことを言っているか」と思っているとしたら、これもニセものです。

本気で相手を理解し、そういう人生観に共感できるなら、それはそれでいいのですが、私なら、一概には言えませんが、こういうときは次のように言うかもしれません。

「あなたが一生、お父さんのお金をもらって生きるつもりなら、もうここに来る必要はありません。私はそんな人のためにこの仕事をやっているわけじゃない。いますぐ帰ってください」

これは、いわば父性原理での対応です。父性原理には「切断」の機能があります。すると、クライエントは一つの刺激を受けてそれまでとは違ったことを考え、また新たな展開がはじまります。

母性に重心がかかっている

角野善宏さんは精神科医ですが、スイスのユング研究所でユング派分析家の資格も取得されて、病院の精神科に勤務されながら精神分裂病者に心理療法を試みられています。その角野さんは、父性のあり方について、次のような質問を寄せてきました。

「治療者として、父性を育てるためには、どのようにすればいいか。子育ての中で、個人的に父親像を鍛えることはできるだろうか。普遍性をもつ父性は、日本人にとってむずかしい課題であると思う。具体的なモデルでもいいので、教えてもらいたい」

カウンセリングとか心理療法というのは、まず受けいれることからはじまります。最初にクライエントを受けいれて、その中でその人がどう変わっていくかということですから、父性と母性という言い方をすると、母性的なものがまず前面に出ます。

普通だったら、たとえば不登校の子がいたら、「学校に行かなければだめじやないか」というような言い方をしますが、カウンセリングでは、してはいけないようなことでも、まず受けいれようとします。この最初の受容なくしては、クライエントとの人間関係をつくることは不可能です。

心理療法の根本は、「そこにいる」ことである

私は自分の仕事のことをよく、「なにもしないことに全力をあげる」と表現します。つまり、doingではなく、beingが大切だということです。

心理療法の根本は、「そこにいる」ことであって、これができるようになったら、はじめて自分の心理療法は完成したと言えるのだと思っています。それができないから、いつも自分の心理療法家としての資質に疑問を感じてしまうのです。

「なにもしないことに全力をあげる」などというと、なにやら禅問答のような感じがしますが、ねらっているところは禅とかなり似ていると思います。

ある高校生が私と会って家に帰ったあと、家族から「どうだった?」と聞かれて、「不思議な人に会ってきた。どこへ飛んでいっても、ちゃんとはたにいるような人だった」と言ったそうです。

はたして自分にそこまでできたかどうかわかりませんが、ある意味では、それこそ私たちの最終目標かもしれません。

それができるようになったら、言葉など必要なくなります。それができないから、口でいろいろなことを言ってしまうのです。自分のスケールを超えたクライエントが来ると、そこにいたたまれなくなって、せかせか、そわそわしたりするわけです。

それは無理もないと思います。ライオンが出てきたのに、そこにいるというのは、なかなかできるものではありません。でも、たとえ相手がライオンでも、こちらがちゃんとそこにいたら、けっして食らいついてはこないでしょう。

こっちか逃げたり、こわがったりするから、食らいついてくるのです。心理療法家の訓練とは、ライオンが来ても逃げないための修行のようなところがあります。

とにかく、心理療法家は、受けることが大事です。

いつも終わりごろになると死ぬ話をもちだされるというのでは、こちらもしだいにイライラしてきます。その腹立たしさを残したままだと、次の面接のときにいやな気持ちで会うことになり、それを相手も感じとりますから、結局、どちらもおかしくなってしまう。

ですから、あるときに、スパツと言うことも必要になるわけです。その場合も、時間的な枠組みが決まっていれば、どこでそれを言うかの目安が立てやすいでしょう。

みんなそれぞれに深刻な話ですし、人によって深刻さの性質も密度も違いますから、どのケースでも毎回、五十分なら五十分できちっとかたをつけるのはたしかにむずかしいことです。

とくに日本の社会には時間感覚にあいまいなところがありますから、つい長引かせてしまいがちですが、やはりこれを守らないと、結果的にクライエントのために、また自分のためにも、悪い影響が出てきます。

だから、自分に妥協せず、むしろクライエントを教育していくことも必要になります。たとえば、「この前は五十分で切ってしまったから、ぼくのことを冷たい人だと思ったんじやないですか」などと言ってあげると、クライエントも、「ああ、この先生はわかっている」と思って、納得してくれる。

ただ、あまり細かく説明すると、自己防衛的に言いわけをしていると思われて、逆効果です。だから、「この前は冷たい人だと思ったでしょう」と言って、相手が「はい」と言ったら、それ以上の弁解はつけません。そうしておけば、相手が攻撃できる可能性が残ります。そこを残しておかなければならない。そして、攻撃されたら、それをしっかり受けとめる。

とにかく、心理療法家は、受けることが大事です。相手から「逃げている」と思われたら、そこまでです。そのあたりが。お互いに弁解し。遠慮しあって、社交的なかたぢがととのっていくという普通の会話とは違うところです。

しかし、こうしたことは、心理療法家とクライエントの間だけでなく、一般社会の人間関係でも通用することではないでしょうか。私は会議のときなどに、意図的にこの手法でやることがあります。

たとえ「冷たい人」と思われても

人は誰でもはじめてのところに行くときには緊張しますが、わかっている場所なら安心できます。いつも決まった場所でやるのは、それだけクライエントの精神的負担を軽くし、集中しやすくするためです。

時間については、私の場合は一回五十分を基本にしていますが、これも体験の中から出てきた目安で、人間の時間感覚からして、一時間以上、集中を継続させることはなかなかむずかしい。

欧米の学校の授業でも、五十分やって十分から十五分の休憩を挟むというのが一般的です。かつて、日本では二時間ぶっ通しで授業をやっていたこともありますが、先生も生徒も中だるみしながらやっていました。コンサートや芝居でも、ほぼ一時間ぐらいをメドに必ず幕間とか休憩がありますが、これは演じるほうにも見る側にも意味があることです。

ただ、自分の中で時間と場所と料金の枠組みを崩さないというのは、かなりの経験がいりますし、実際にはなかなかむずかしい場面もあります。

心理療法は一種の闘いみたいなものです。クライエントがいろいろ雑談めいた話をして、あと五分ほどで終わるというときになって、やっと、「先生、私はもうだめです。もう死にます」などと言いだすことがあります。

それならはじめから「死にます」と言ってくれたらいいのに、最後の五分ぐらいのところで言うから、慣れないカウンセラーだと、ここでとまどったり、うろたえたりしてしまいます。

「死にます」と言われると、放ってはおけませんから、しかたなく枠組みを崩して、十分とか十五分延ばして話を聴いていくと、なんとかおさまって帰っていく。

その次に来たときに、こちらが、この前の死ぬという話はどうなったかと気にしていると、今度もまたぐだぐだと無駄話を続ける。そういうときには、こちらから父性を前面に出してビシツと言うことも必要になってきます。

「あなた、そうやっていろいろ話をしてるけど、最後に『死ぬ』と言うんじやないだろうね」この判断はむずかしいけれども、これをやらないと、いつも同じ逃げのパターンに引きこまれて、これでは相手も変わっていきません。枠組みがどんどん崩れていけば、カウンセラーのほうも危険な状態になります。

フロイトやユングがつくったこと

心理療法を広義に解釈すれば、なにも外から見える枠はなくてもいい。運動場の片隅で会おうが、一緒に山登りしようが、やろうと思えばどこででもできます。病院の保育器の中がのぞけるようになっている廊下のところでもできます。しかし、そのときに心理療法家が心の中に枠をもたずにやっていると、すごく危険です。クライエントによっては、いつまでも座りこんだり、泊りこんだりということも起こってきます。

時間、場所、料金といった枠組みは、フロイトやユングらの試行錯誤の中から生まれてきたものですが、私たちがやりはじめたころにはその意義がなかなか理解されなくて、若い人たちからよく批判されたものです。

「ぽくなんか、困った子とずっと一緒に住んで、寝食をともにして診ているのに、先生なんか、一週間に一度会うだけで、ずいぶん楽でしょう」そんな皮肉まじりの批判を受けたこともありますが、しかし、実際には私たちのやり方のほうがずっと効果があがりますから、結局は彼らもしだいに納得するようになります。

「こんな狭い汚い部屋で一時間会うくらいなら、集団で外で遊ぶほうがよほどいいではないか」と言う人もいました。それはたしかに健康にはいいかもしれませんが、私たちは健康教室をやっているわけではありません。時間、場所、料金という枠組みについては、すごく批判されました。だから、私はその意義をわかってもらうためにわざわざ「時間、場所、料金について」という論文を書いたほどです。

もっとも、私自身、ユング研究所から帰ってきたばかりのころは、そんなにきっちりと決めてやっていたわけではありません。まだ心理療法自体が一般に知られていないころで、なにかうさんくさいものと思われていた時代ですし、また、誰もが「相談はただ」と思っていますから、そんなときにお金など取ったら誰も来てはくれません。

だから、はじめは無料でやったこともありますし、そのほかにもいろいろな方法を試しました。そういう中で、少しずつみんなを説得して、そうした枠組みを実施していったわけです。

京都大学で料金を取るということを決めたときでも、学生の中にはすごい抵抗がありました。人の苦しみを金儲けの道具にするなんてもってのほかだとか、お金を取ったら人助けにならないとか、いろいろ言われました。しかし、もともとフロイトやユングが体験の中から編みだした手法ですから、誰でも実際に体験を積んでいくうちに、自然にわかってきます。

日本人は枠にはまるのをいやがる人が多い。

たとえば、クライエントが「私はだめな人間だと思います」と反省していたら、それ自体、苦しいことですが、さらに、「もう死んだほうがましです」と言うくらいのところまでいかないとなかなか変わりません。しかし、それを言うと、もっと苦しくなる。

そこで、クライエントが「それはそれとしで、いまの内閣はつまらんですね」などと話をそらしてしまう。こちらから無理に問いつめて相手を苦しめるのは危険ですから、その話を聴いています。

しかし、時間が来て面接が終わると、雑談もそこで切れますから、クライエントは帰りがけに考えるわけです。「あそこで反省していると言いながら、なんで内閣の話なんかしたんだろう。やっぱり自分は逃げているんだ」と、そのことに気がつく。

つまり、時間を決めていることが、そのきっかけになるのです。自分が無駄話をしている問もお金をとられているんだと思えば、やはり集中度も違ってきます。

ところが、時間を決めず延々とやっていたら、どんどん自分に甘くなっていって、問題に直面するのを避けてしまう。変わるときには自分で変わるわけですから、直面しなければ、いつまでだっても変わりません。したがって、面接の効果も薄れていきます。

ただ、とくに日本人はそうですが、枠にはまるのをいやがる人が多い。たとえば、スクール・カウンセラーでも、子どもに「一時間話しますから、相談室へ来なさい」などと言っても、なかなか来てはくれません。だから、運動場で話そうとか、一緒にハイキングをしようとか、その場その場で臨機応変に対応していかなければならない場合も出てきます。

心理療法というのは、単なる人生相談ではない

心理療法というのは、単なる人生相談ではなく、人間の心の深いところにまで入りこんでいきますから、下手にやると、クライエントはおろか、治療者もおかしくなってしまうことにもなりかねません。

それだけ危険をともないますので、そういうことを避けるためにも、現実的でセレモニー的な枠をはめておく必要があります。その守りの枠が、時間と場所と料金です。

フロイトもユングも、はじめのころはむちゃなことをやっていました。ユングなど、クライエントと寝食をともにしてやっていました。

一般的には、人のために一生懸命やるのなら、時間も場所も決めず、ずっと一緒にいるほうがいいし、お金なんか問題ではないと考えがちです。

常識では誰でもそう思うでしょう。だから、彼らもはじめのころはそのやり方でやっていたわけです。ところが、不思議なことに、時間と場所と料金を決めてやったほうが効率的だということがしだいにわかってきたのです。

一つには、人間の集中力には限界がありますから、そういう一定の枠が決まっているほうが集中しやすいし、深い世界に入っていきやすい。受験勉強でも、のんべんだらりと長時間やっているより、短時間に集中してやったほうが効果的です。

クライエントはすごく苦しい思いをしています。しかも、治ることは苦しい。だから、フロイトも、「誰でも治りたくないと思っている」と書いているほどです。治る苦しみ、治る悲しさ、治る怒り・・・そういったものに耐えられなくなると逃げたくなります。

その場合、五十分なりがまん時間と時間が決まっていれば、つらいけれども、その時間内は我慢して頑張ろうという気になりやすい。時間が決まっていなければ、どうしても逃げてしまいます。


時間と場所と料金を決めるわけ

大学病院の周産期センターで、もう十年以上、臨床心理家として新生児の父母のカウンセリングをやってこられた橋本洋子さんは、ご自身の職場の性格と心理療法のあり方について、疑問を抱いておられるようです。

「なにをもって『心理療法』と呼ぶことができるのでしょうか。私は周産期という特殊な場で臨床をしてきました。普通の『心理療法』とは枠組みが異なり、自分の臨床は『心理療法』と呼べるのだろうかと、ずっと疑問に思ってまいりましたので」

周産期センターというのは、産科に併設された、生まれてまもない赤ちゃんのための集中治療室といった感じのところですが、そこで主として、赤ちゃんを産んだばかりで、その赤ちゃんがたとえば早産などで危険な状態にあるときに、橋本さんはそのお母さんのほうをケアされているわけです。

橋本さんは「特殊な場」と言っておられますが、たしかにそういうところに心理療法家が常駐していることは、一般にはあまり知られていないでしょう。

私たちはいろいろなタイプのクライエントに会いますが、橋本さんの場合は、特定の場における心理療法ということで、たしかに何時から何時までと時間を決めて会う一般の心理療法家とはかなり違うかもしれません。

心理療法という場合、狭義と広義があって、狭義で言うと、時間と場所と料金をきちんと決めてクライエントと会うというかたちになりますが、広義の意味では、根本のアイディアを生かしながら、いろいろな場面でクライエントと会っていくもので、橋本さんの場合はこちらに入ります。広義のケースを心理療法と呼ばない人もいますが、私は広義のものも心理療法に含まれると考えます。

分析は真剣勝負

ある人が面接に行ったら、自分より先の人がいて、もう一時間も待だされているという。これでは、悪くすると二時間待だされることになるかもしれないと覚悟していたら、先の人が入って十分ほどで出てきて、「はい、次」ということになったとか、いろいろとおもしろいエピソードもありました。

要するに、彼の時間感覚は時計の時間とは違っていて、そのときの流れの上で生きているところがありました。みんながそのことを知っていますから、それでも結局はつじつまが合うんです。

マイヤー先生も、そのときの流れで、五十分のところが一時間になったり、四十分でやめるときもありました。そこで私か、「先生はあんまり時間どおりにやりませんね」と言ったら、こんな返事でした。

「君は、『カルメン』は三時間だけど、『椿姫』は二時間だから、同じ値段ではおかしいとか、『カルメン』のほうが割安だとか言うかね。その作品を見にいっているんだから、作品が終わったら終わりじやないか」

私の友人のアメリカ人がマイヤー先生に分析を受けたが、分析中に先生がしきりにあくびをしだした。そこで彼は、あまり朝早くからでは先生があくびばかりしておもしろくないと思い、時間を変えてもらって午後に行くことにした。それでもまたあくびばかりしている。

そこで彼はちょっとムッとして、皮肉っぽく「先生はよくあくびされますね」と言ったら、「私は人から退屈な話を聞かされると、すぐあくびが出るんだ」と答えが返ってきました。つまり、もっと真剣にやれということなのです。分析は真剣勝負です。

私がついたもう一人のフレー女史は、反対にきっちりと時間を守る人でした。フレー博士に、「マイヤー先生は時間どおりやらないですね」と言ったら、「私はとても彼のようにはできないから、せめて時間だけはちゃんと守っている」との答えでした。