2014年7月15日火曜日

構造改革とアイデンティティー維持

九八年一月にインドネシアがIMFと再交渉し、合意に達したあとでスハルト大統領が合意書にサインしている写真が一斉に雑誌・新聞に流れた。大統領の横には腕組みをして署名を見おろすIMFのカムデュシュ専務理事の姿があった。

この写真は多くのインドネシア人、そしてアジアの人々にとっては屈辱的なものとして受けとられた。私はカムデュシュ専務理事を個人的によく知っているし、彼がそういう傲慢な態度をとっていたわけではないのはよくわかるのだが、長い欧米の植民地支配を受けたアジアの人々に対する配慮がもう少しほしかったとも思うのである。

事実、最近のアジア危機に対する欧米の反応は、植民地主義の再来ととられかねない部分を含んでいる。アジアの奇跡だとか、二十一世紀はアジアの時代だとか、ここ五~十年のアジアに対する過大な期待に対する反作用だといってしまえばそれまでだが、アジアに対するある種の歴史的コンプレックスと優越感がそこには見られると思えるのはあながち私の偏見だけではないであろう。

何もアジアのナショナリズムをあおったり、狭い意味でのアジア主義を指向するつもりは全くない。しかし、アジアにしても日本にしても、それぞれの歴史・文化を維持しながらグローバリゼーションに対応していくべきであり、卑屈になって、自らのアイデンティティーーを捨てるような形での「構造改革」を行う必要がないことはいうまでもない。

韓国の財閥もインドネシアの政治コネクションも、それぞれ問題をかかえているのはたしかなのだから、改革すべきは改革したらいいし、欧米的システムから学べるところがあったら学んだらいい。しかし、そのことと自らの国あるいは文化のアイデンティティーを捨てることとは全く別のことである。